昭和とクルマ7 【1964,1965,1966】

“マイカー”の芽生えと本格モータリーゼーションの到来

会員登録(無料)でより詳しい情報を
ご覧いただけます →コチラ


個人所有の小型乗用車普及の息吹

 日本における乗用車の普及、いわゆるモータリーゼーションが急速に発展した1960年代前半の日本。岩戸景気やオリンピック景気をバックボーンに、カラーテレビやクーラーとともに“新・三種の神器”に数えられたクルマは、1960年代後半に入ると個人所有向けの新世代の小型大衆車=マイカーによって、爆発的に普及することとなった。

 マイカーの進展の背景には、トヨタや日産といった大手メーカーのほかに、軽自動車でクルマ造りの技術を蓄えて次段階として乗用車に進出していった中小メーカーの存在が欠かせない。その代表格が、東洋工業(現マツダ)やダイハツ工業、鈴木自動車工業(現スズキ)という実力派たちだった。従来は大まかな区分における乗用車の“ミニカー”メーカーに位置づけられた3社は、来たるべき資本の自由化や市場におけるクルマの上級志向に対応するための新戦略を鋭意検討する。その具体策として実行したのが、今後さらなる伸びを示しそうな小型大衆車市場への進出だった。

800ccクラスの小型大衆車の相次ぐデビュー

 東洋工業とダイハツ工業は、安定した販売が見込める小型ライトバンをまず発売し、それをベースとする3BOXの小型セダンを後に市場に送り出すという戦略を展開する。
 東洋工業の大衆乗用車は、「マツダ・ファミリア」の車名を冠して1964年9月に発表(発売は10月)される。内外装のキャッチコピーは“安定感に満ちた低く広い現代感覚のスタイル”。フラットデッキデザインの4ドアセダンボディに存在感あふれるフロントマスク、きれいなラインを描くサイドビューなどによって個性的かつ上質なフォルムを実現する。さらに、アルミ合金を多用する“白いエンジン”(SA型782cc直4OHV)で高性能セダンのイメージも内包した。4ドアセダンのデビュー後も、ファミリアは着実にラインアップを増やしていく。1964年11月には2ドア仕様を追加。1965年11月には「ファミリア・クーペ」を発売し、イタリアンクーペを彷彿させるフォルムや高性能なPA型985cc直4OHCエンジンなどの採用で注目を集めた。

 一方のダイハツ版大衆乗用車は、「コンパーノ・ベルリーナ」の車名で1964年2月に市場デビューを果たす。コンパーノは上品なイタリアンスタイルを基調とし、緩やかな弧を描くボディラインや広いグラスエリア、存在感のあるフロントマスクなどで構成される。エンジンはFC型797cc直OHVユニット搭載した。また、1965年3月には“ファーストカーとして乗るスポーツカー”を謳うオープン仕様の「コンパーノ・スパイダー」を追加。シューティングラインと称するスポーティなスタイルで高い人気を博した。

 小型ライトバンを先行させた2社に対し、鈴木自工はバンモデルを経ずに当初から3BOXの小型セダンをリリースする。車名は軽自動車と同様の馴染み深いネーミングに排気量を加えた「フロンテ800」と命名。正式発表は1965年10月、発売は同年12月に実施した。フロンテ800は異彩なメカニズムで注目を集める。エンジンはC10型785cc直3の2サイクルで、ユニット自体を左に30度ほど傾けて縦置きに搭載。潤滑は独自開発のセルミックス式で、駆動方式には同社の軽自動車と同じくFFを採用した。また、イタリアンチックなノッチバックスタイルや四輪独立懸架の足回り、油圧式ダイヤフラム・スプリングのクラッチなども脚光を浴びた。

2台の革新車でマイカー・ブームが本格化

 個性派ぞろいの小型大衆車がデビューした後、大手メーカーのトヨタと日産がいよいよ本格始動する。
 最初に動いたのは日産。1966年4月に新世代大衆車の「ダットサン・サニー1000」を市場に放った。サニーは維持費の少なさを最大限に重視する。モノコックのボディについては、徹底した軽量化を実施して優れた燃費性能を実現。また、各部のグリースアップ頻度を最小限に抑えるなどメンテナンス性にもこだわる。エンジンに関しては、鋳鉄ブロックとハーフスカート構造、さらに3ベアリング方式を用いたA10型988cc直4OHVユニットを新開発した。
 デビュー当初のサニーの販売は絶好調で、約5カ月のあいだに3万台を上回る実績を記録する。ユーザーの評判もよく、とくに俊敏な加速性能や購入・維持費の安さなどが好評を博した。

 サニーの市場での高い人気に対し、最大のライバルであるトヨタ自工は、この状況を冷静に観察していた。サニーと競合させる小型車の開発が、最終段階に入っていたからだ。トヨタ自工の新しい小型車は、既存のパブリカの反省、具体的には「大衆車は合理性だけでは人気が出ない。内外装やスペックの見栄えがよく、ユーザーの所有欲を満たす1台でなければならない」という経験則のもとに開発が進められた。スタイリングに関しては、世界の乗用車デザインの最新流行を採り入れ、スポーティなセミファストバックを導入。さらに、見栄えのするフロントグリルやメッキパーツを積極的に取り入れた。エンジンは企画当初、1000ccクラスを想定していたが、開発途中で日産の新しい大衆車が1000ccのエンジン排気量を採用するという情報が入り、差異化を図るために急遽1100ccクラスに変更する。完成したエンジンはK型1077cc直4OHV。5ベアリング支持やダブルチェーンドライブのハイカムシャフトなどを採用し、高い連続高速耐久性を確保していた。

 トヨタの新しい小型大衆車は、「カローラ」の名で1966年10月に発表(発売は11月)される。キャッチフレーズには、サニーを意識した“+100ccの余裕”と謳った。内外装の見栄えがよく、しかも優れた総合性能を備えたカローラは、たちまち市場で大人気を博す。発売月の11月には早くもサニーの販売台数を凌駕。その後もサニーを含むライバル車の販売台数を圧倒し、マイカー市場のトップセーラーに君臨したのである。