コルト800 【1965,1966,1967,1968,1969,1970】

先駆となった流麗なファストバック

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コルト800は600の後継モデルとして登場。
国産で初めてとなったファストバックのボディーに、
小型車では珍しい2ストローク3気筒エンジン(45ps)を
搭載してのデビューとなった。
ライバルたちがオーソドックスな3ボックスを採用する中にあって、
そのスポーティなデザインの巧みさと先進性が魅力だった。
三菱ブランドの発展

 1951年、アメリカのカイザー・フレーザー社と小型乗用車「ヘンリーJ」、そして1953年にウィリス社と4WDの小型トラック「Jeep」、これらのノックダウン生産の技術提携に始まる三菱重工業の自動車生産は、乗用車生産への進出を果たすべく、1960年に小型乗用車規格のリアエンジン車「三菱500」を登場させる。主軸のファミリーカーは「三菱500」を発展させた1962年の「コルト600」を経て、1965年には「コルト800」に成長する。その間にも、1963年には3ボックススタイルの1リッター級の4ドアセダン「コルト1000」や2リッター級の乗用車「三菱デボネア」、さらに軽ボンネットバンの「三菱360」から発展した乗用車「三菱ミニカ」などを登場させ、本格的な乗用車メーカーとして順調な歩みを見せていた。

再統合を経てコルト800誕生

 トヨタや日産、プリンス自動車などに比べて、乗用車生産では後発となった感のあった三菱(後の三菱自動車)だったが、これには、三菱自動車の母体となった三菱重工業が、第二次世界大戦前から軍需産業と深く結びついていたという特殊な事情があった。第二次世界大戦の敗戦後、日本に進駐して来たGHQ(General Head Quarter=連合軍総司令部)は、再軍備を防止するために、日本の財閥解体を命じ、三菱や三井、住友などの古くからあった財閥を徹底的に解体した。軍需産業の中核的存在であった三菱重工業は東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社に分割され、各々独立した会社としてスタートすることになる。前述したアメリカのウィリス社と技術提携して「Jeep」をノックダウン生産したのは、名古屋に本社を置く中日本重工業であり、この会社がやがて乗用車生産の拠点となる。1964年に3分割されていた重工3社が再び統合されて三菱重工業となり、1970年には旧・中日本重工業の自動車生産部門を切り離すかたちで三菱自動車工業が設立された。

個性あふれるファストバック

 1965年11月に発売された「三菱コルト800」は、それまでの「三菱コルト600」に代わるモデルであったが、スタイリングはもちろん、エンジンや駆動方式に至るまで、全てが一新された新型車だった。スタイリングはルノー16(フランス)、フィアット850クーペ(イタリア)、NSUスポーツ・プリンツ(ドイツ)などに見られるように、当時世界中で大流行していたファストバックのスタイルとなっていた。ただし、ルノーなどのようにテールゲートは付けられておらず、独立したトランクがビルトインされていた。おそらく、当時の日本では、ハッチバックのスタイルは貨物用のバンと同じに見られることで嫌われたものと思われる。当初からフルオープンのテールゲートと折り畳み可能なリアシートなどが装備されていれば、実用性はさらに高まったはずだ。クロームメッキのモールディングを多用したエクステリアの飾りモノは、当時は豪華さの象徴でもあった。

メリット高い2ストロークを採用

 フロントに縦置きで搭載され、後輪を駆動するエンジンは、水冷直列3気筒の2ストロークで、排気量は843ccである。圧縮比7.6とソレックス型2バレルキャブレターを装備して、最高出力45ps/4500rpm、最大トルク8.3kg-m/3000rpmの性能を発揮した。この2ストロークエンジンには、ガソリンとオイルを別々に供給する分離給油方式が採用され、焼き付きなどのトラブルを予防していた。排気ガス浄化規制や燃料消費があまり大きな問題とはなっていなかった当時、2ストロークエンジンは低コストでハイパワー、しかもメインテナンスが容易などの理由で、特に小型車のパワーユニットとして日本だけではなく、世界的にも多く用いられていた。ドイツのDKW、ロイト、スウェーデンのSAAB、旧東ドイツのトラバント、ヴァルトブルグなどは2ストロークエンジンを採用していた。日本でも、「三菱コルト800」以外にも、「スズキ・フロンテ800(1965年)」が2ストロークの直列3気筒エンジンを採用していた。まさに、2ストロークエンジン全盛の時代だったのだ。

曲面ガラスの採用で快適な室内に

 インテリアのデザインは、かなり簡素化されており、軽自動車のものをそのまま拡大したような感じだ。だが、軽自動車と決定的に異なるのは室内の寸法であり、大人5人に十分な広さがあった。特に後部座席はサイドウィンドゥに曲面ガラスを採用したことで、ショルダー部分のスペースは広がって居住性は大いに向上した。このサイドウィンドゥは上縁をヒンジとして外側へ開くことが可能で、フロントドアの三角窓とともに室内のベンチレーションを助けていた。エアーコンディショナーが一般的でなかった当時としては、これは重要なポイントだったのである。

クラス水準を抜く動力性能を発揮

 トランスミッションはマニュアルタイプの4速型で、コラムシフトとフロアシフトを採用していた。シートはベンチタイプとセパレートタイプをグレードに応じて用意していた。サスペンションはフロントが横置きリーフスプリングによる独立懸架、リアは縦置きリーフスプリングによるリジッドアクスルと一般的なものだ。ブレーキはもちろん四輪ドラムでサーボ機構はない。タイヤが6.00-12サイズのバイアスタイヤであるのが時代性を表している。車重は750kgと軽く、最高速度は120km/hが可能だった。800cc級の乗用車としては十分以上の性能である。

 モデルバリエーションはスタンダードとデラックスなどの4タイプ。価格は廉価版のスタンダードの44万8000円から豪華スポーティ仕様の51万円までとなっていた。これでも、同クラスでライバルとなるトヨタ・パブリカ(38万1000円)やマツダ・ファミリア・スペシャル(41万7000円)などと比べて割高感は否めなかった。

4ストロークの1000Fへと進化

 初物尽くしで登場した「三菱コルト800」だったが、技術的には注目されるところが多かったものの、スタイリングやエンジン仕様などが、当時の日本のクルマ社会では受け入れ難かった面があった。そのころ、乗用車といえば、3ボックススタイルの4ドアセダンであり、先進的ではあったが2ボックススタイルの2ドアクーペともいえた「三菱コルト800」はかなり異質な感じがあった。また、排気量が843ccであったとは言え、2ストロークエンジンは、軽自動車の拡大版のイメージをユーザーに与えることになった。このような理由から、三菱ではエンジンを「コルト1000」と同じ水冷4ストロークの977ccへと換装し、1966年9月から新たに「三菱コルト1000F」として発売した。先進の技術とアイデアを盛り込んで登場した「三菱コルト800」は、わずか10カ月ほどで消えるのだが、三菱のクルマ造りに残した影響は大きなものがあった。

COLUMN
コルト800には三菱の先進技術を投入
国産初のファストバックを採用したコルト800。斬新なスタイリング以外にも、コルト800には「先駆け」と言える数々の技術が存在する。まず、2ストロークエンジン。当時の軽自動車では当たり前の2ストロークだが、小型車というカテゴリーで言えば、この コルト800と、同時期に登場したスズキのフロンテ800が、採用するだけの個性派だった。ライバルのフロンテ800は、まず1962年の全日本自動車ショーで、フロンテ700としてプロトタイプがお披露目となっていて、3年の年月をかけて、1965年の12月に発売した。一方のコルト800の市販開始は1965年の11月。コルト800のほうがひと月ほど早い発売であった。また、キャブレターへの吹き返しを防止するリードバルブは、世界に先駆けて三菱が実用化に成功したもの。蛇足だが、FRレイアウトのコルト800は当初、FFでの開発も試していた。もし、FFを採用していたら、スバル1000(1965年10月発表/1966年5月発売)よりも先に、初のFF小型モデルの発売となったかもしれない。