ビークロス 【1997,1998,1999】
デザインで魅了したスペシャルティSUV
乗用車の自社開発および生産を1992年に中止し、“SUVスペシャリスト”を標榜するようになったいすゞ自動車。経営資源の集中化によって会社の業績は回復が見込まれたが、一方で大きな問題も表面化した。開発現場の“士気”である。
当時のいすゞスタッフによると、「古くはベレットや117クーペ、1980年代ではジェミニやピアッツァなど、当時のいすゞの現場は玄人好みのクルマ開発に憧れて入社した人が多かった。そんな人たちは、ビッグホーンやミューの開発だけでは決して満足できなかった」という。
このままでは、いすゞが培ってきたクルマ造りの伝統が失われてしまう--。危惧を抱いた技術担当の首脳陣は、従来から提案されていた「既存モデルにはない新カテゴリーのSUV」の開発にゴーサインを出す。そして1992年の初夏には、「あらゆる路面を走破できる全天候型スポーツカー」を造るという基本方針が固まった。
スポーツ性を前面に押し出した新しいSUVは、スタイリングを重視する。基本デザインはベルギーのIEE(いすゞ・ヨーロッパ・エンジニアリング)が手掛け、全体のマネージメントについては日本の藤沢工場(神奈川県)が担当。その後、造形拠点をイギリスのバーミンガムにあるデザインスタジオに移した。
プロトタイプは、3代目FFジェミニの基本コンポーネントを流用し、ラウンディッシュなフォルムにショートオーバーハング、横バーを加えたサイドパネル、スペアタイヤ組み込み型のテールゲートなどを採用してアグレッシブなエクステリアを演出する。このデザインスタディは、1993年10月に開催された第30回東京モーターショーの舞台において、“ヴィークロス”(VehiCROSS)の名を冠してワールドプレミアを飾った。
ヴィークロスは後に生産性を考慮して基本コンポーネントをビッグホーン/ミュー用に変更するが、デザインの基本路線はそのまま踏襲した。また、シャシーについてはキャブマウントの位置および材質変更やサスペンションチューニングの大幅な見直し(アルミ製別体タンク式モノチューブショックアブソーバーの採用など)が図られ、エンジンに関してもビッグホーン用の6VD1型3165cc・V6DOHC24Vを流用しながら動弁系のフリクション低減やハイフローストレートポートの採用、デュアルモードサイレンサーの装着といった変更が行われた。さらに、電子制御トルクスプリット4WDシステムも、より応答性を引き上げたスポーティなセッティングにリファインされた。
いすゞ渾身の全天候型スポーツカーは、車名を“ビークロス”に変え、1997年3月に発表、4月から発売に移される。型式はUGS25DW。車種展開はモノグレード構成。5本スポークの専用アルミホイールやレカロ製バケットシート、MOMO製本革巻きステアリングホイール、バックアイカメラ連動カラー表示モニターなどを標準装備していた。
市場に放たれたビークロスは、まずスタイリングで注目を集める。既存のSUVにはなかったスポーティで個性的なルックスに加え、往年のベレットGTRを彷彿させる黒塗装のエンジンフードやエアプレーンタイプのフューエルリッドなど、細部のアレンジも凝っていた。インテリアではレカロ製バケットシートやMOMO製本革巻きステアリングホイール、カーボン調メーターパネル&ガーニッシュといった装備が好評を博す。パフォーマンスに関しては、トルクフルなエンジンとハードな足回り、4WD車らしい高いロードホールディング性能がユーザーを惹きつけた。
大きな話題を集めて登場したビークロスは、デビューから8カ月ほどが経過した1997年11月になると、“プレミアムプロデュースカラー25”と称する25色のボディカラーを設定する(デビュー当初は5色)。また1998年には、ビークロスの特性に注目したチューンアップメーカー数社がラリーレイドに出場する仕様を製作した。
いすゞのデザイン力の高さを証明したビークロスは、1999年2月にポリッシュ加工アルミホイールや立体デカール、レッド&ブラックカラーの本革シート、シリアルナンバー刻印の記念プレートなどを装備した特別仕様車の“175リミテッドエディション”(175は開発コードに由来)を175台限定でリリースしたのを最後に、日本での販売を終了する(北米仕様は2002年まで販売)。
国内販売台数は1700台あまりと少なく、決してヒット作とはいえなかったが、市場に残したインパクトは非常に大きかった。その証拠に、21世紀に入るとビークロスと同種のスポーツ志向クロスオーバーSUVが国内外のメーカーから相次いでデビューしたのである。