日本モータースポーツの歴史03  【1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982】

F1日本 GPが与えた大きな衝撃

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F1日本GP開催の序章

 1970年に日産、トヨタが突如撤退を表明し、大排気量エンジンを積んだプロトタイプカーレースが終焉を迎えると、プライベーターを中心としたフォーミュラカーレースやツーリングカーレースが脚光を浴びるようになった。富士スピードウェイと鈴鹿サーキットでは、新人ドライバーを対象としたフレッシュマンレースがスタート。軽自動車のエンジンを搭載した日本独自のフォーミュラ規格であるFJシリーズが生まれ、モータースポーツの間口を広げていった。

 そんな状況で、いきなりビッグイベントが開催される。1976年10月24日に決勝レースが行われた「F1グランプリ」の開催だ。これには伏線があった。もともとは興行屋が1974年にF1グランプリを呼び寄せようと動いたが、契約関係のこじれで実現せず。その代わり、11月にF1マシンによるデモンストレーションランが実現。エマーソン・フィッティパルディ選手やロニー・ピーターソン選手ら、5人の現役ドライバーが富士スピードウェイでF1を走らせ、観客を魅了した。

雨が明暗を分けたF1決戦!

「F1世界選手権 in Japan」と銘打たれた日本GPは、1976年シーズンの最終戦に組み込まれて開催された。奇しくもチャンピオン決定戦となる。
 8月のドイツGPで大事故に遭遇したニキ・ラウダ選手(フェラーリ)は奇跡的な回復を見せ、68点で富士スピードウェイのレースに臨んだ。これをジェームス・ハント選手(マクラーレン)が65点で追う。

 決勝当日は雨。スタート時刻の午後1時半になっても雨は降り止まず、1時間半遅れのスタートとなった。雨の中を数周したところで、ラウダをはじめ5人のドライバーがピットに戻ったが、これはチーム間の取り決めに従ったものだった。雨が激しすぎてレース続行が危険だったためで、5周とはいえ走行した実績を作り、観客やオーガナイザーを納得させようとしたのだ。

 ところが、天候が好転したことで状況が変わる。ハントを筆頭に多くのドライバーがそのまま走行を続行、レースが進行することになった。結局マリオ・アンドレッティ選手(ロータス)が優勝し、2位にパトリック・デュパイエ選手(ティレル。前4輪、後2輪のP34。いわゆる「6輪タィレル」)、3位にハントが入って逆転で年間チャンピオンを獲得した。

 日本勢では、長谷見昌弘選手、高原敬武選手、高橋国光選手、星野一義選手が出走。長谷見は純国産マシンのコジマKE007をドライブ。金曜日の走行でクラッシュしたのが響き、レースでは下位に沈んだが、本場のF1関係者を瞠目させる速さを披露した。一方、ブリヂストンのバイアスタイヤを履くティレル007に乗り込んだ星野は、雨中のレースで一時3番手に浮上する快走を見せている(結果はリタイア)。

日本から世界へ!星野、中嶋の活躍

 翌1977年のF1日本GPは天候こそ恵まれたものの、惨事が襲う。すでにチャンピオンを獲得していたラウダに代わって出場した新人のジル・ビルヌーブ選手(フェラーリ)とロニー・ピーターソン選手(ティレル)が6周目の1コーナーで激突。ビルヌーブのマシンは宙を舞ってコース外に飛び出し、2人の命を奪った。その年の12月に翌年の日本GPの中止が発表。次ぎにF1が上陸するまでに10年を費やすことになった。

 2年続けてF1に参戦した星野は1978年にヨーロッパに遠征し、F2選手権にスポット参戦。全日本F2でシリーズ2位の成績を残すと、翌1979年の鈴鹿F2ではチャンピオンを獲得する。
 一方、プライベーター主体の路線で人気を博していた富士グランドチャンピオンレース、通称グラチャンは、F2マシンにカウルを被せたようなスタイルへと進化していった。1979年のシリーズは中嶋悟がチャンピオンを獲得。以後、中嶋と星野はF2とグラチャンを舞台に激しい火花を散らし、それが両シリーズの人気を牽引することになった。

9万人が感動したポルシェの走り

 1980年代に入ると、国内の自動車メーカーが次第に息を吹き返し、レース活動に本腰を入れて取り組むようになった。彼らが活動の対象に選んだのは、WRC(世界ラリー選手権)であり、ル・マン24時間レースであり、専用プロトタイプのグループCカーによって争われる耐久レースだった。

 1982年10月2日、日本初の世界耐久選手権レースWEC(World Endurance Championship) JAPANが富士スピードウェイで開催された。9万人近い大観衆を集めて行われたレースでは、同年のル・マンで1位から3位までを独占したポルシェ956が段違いの速さを見せつけて優勝する。
 WECの成功を受けて、1983年から国内耐久レースシリーズの全日本スポーツプロトタイプ選手権がスタート。ル・マンに参戦していたマツダに加え、常勝ポルシェに立ち向かうべく、トヨタと日産が本格参戦を開始した。