昭和とクルマ06 【1962,1963,1964,1965,1966,1967】

速さに主眼を置いた国産高性能モデルの誕生

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本格スポーツカー「フェアレディ」の進化

 モータリゼーションが飛躍的に進展した1960年代初頭の日本。その勢いは、1963年5月に催されたモータースポーツイベントによってさらなる高みに達する。前年に開設した鈴鹿サーキットで日本初の本格的なレースイベント、第1回日本グランプリ自動車レース大会が開催されたのだ。このレースで日産は、国内スポーツカー1300-2500クラスに「フェアレディ1500」で参戦。トライアンフTR-4やMG-Bなどの外国製スポーツカーを制して優勝を飾った。

 日産は市販版フェアレディの宣伝材料として、このレースでの勝利をアピールした。耐久性がある、壊れない、そして速い−−。ユーザーの注目度も大いに高まった。同時に日産の開発現場では、スポーツカーの命題である“進化”を鋭意推進する。まず1965年5月には、R型1595cc直4OHVエンジンを積み込んだSP311型「フェアレディ1600」を発売し、ついに“100マイルカー”の仲間入りを果たす。そして1967年3月には、U20型1982cc直4OHCエンジン+ポルシェタイプシンクロ5速MTを搭載して最高速度205km/hを誇るSR311型「フェアレディ2000」を市場に送り出した。

“驚異のメカニズム”を搭載した「ホンダSシリーズ」

 1962年開催の第9回全日本自動車ショーにおいて、高性能スポーツカーの「ホンダ・スポーツ360/500」を出展した本田技研工業。このうち、スポーツ500が「S500」と車名を変え、1963年10月に市販に移された。
 自動車マスコミから“驚異のメカニズム”と称されたS500の心臓部には、AS280E型531cc直4DOHCエンジンが積み込まれる。アルミ合金製の本体にDOHCのヘッド機構、1気筒当たり1個の4連キャブレター、独立タイプのエグゾーストポートなど、レーシングエンジン並みのスペックを備えたAS280E型ユニットは、44psの最高出力を8000rpmという高回転で発生した。

 一方、シャシーに関しても本田技研の技術力が存分に発揮される。フレームは箱型断面の梯子型で、チューブタイプのクロスメンバーを装備。足回りは前ダブルウイッシュボーン/後トレーリングアームで、リアのアーム内(ケース形状)にはローラーチェーンが通り、フレームに固定したデフの両端と結ばれて後輪を駆動する。モーターサイクルの経験を生かしたこのユニークな駆動機構は、小さなボディの枠内で駆動メカニズムをコンパクトに収めるための選択だった。

 本田技研の“S”はその後、エンジン排気量の拡大を矢継ぎ早に実施していく。1964年3月にはAS285E型606cc直4DOHCエンジンを採用する「S600」を発売。また、ビジネスシーンの要望に応えて、クーペボディもラインアップする。1965年12月には、AS800E型791cc直4DOHCエンジンを積む「S800」が登場し、1968年5月には最終進化版の「S800M」が市場に放たれた。

“GT”のネーミングを冠した2台の高性能モデル

 第1回日本グランプリにおいてプリンス自動車工業は初代スカイラインを中心に参戦したが、予想外の惨敗を味わう。他メーカーが車両規則を忠実に守られず、煽りを食った部分もあるが、プリンス自工のレースに対する考えが甘かったのも敗戦の一因だった。

 開発陣は次回のグランプリに向けて、一大プロジェクトを敢行。最新のS50型スカイラインを使った大胆な改造を計画する。同社のグロリア・スーパー6に搭載するG7型1988cc直6OHCエンジンを、スカイラインのエンジンルームに積み込もうとしたのだ。その目的のために、ノーズとホイールベースを伸ばした専用ボディを作り上げる。かくして完成したクルマは「スカイラインGT」(S54-1)と名づけられ、1964年3月に発表、同年5月に限定で発売された。

 1964年5月、第2回日本グランプリ自動車レース大会が開催される。注目のGT-IIクラスに意気揚々とスカイラインGTを持ち込んだプリンス陣営は、プライベート参戦の1台のライバル車に目を奪われた。ポルシェ904カレラGTS。海外のレースでも活躍するポルシェ自慢のGTだった。予選はスカイラインがポールを獲得。だが決勝になると、904があっという間にトップに踊り出た。必死に追走するスカイライン。そして7周目に、信じられない光景が観客の目に飛び込んできた。スカイラインが904を抜いたのだ。

 コーナーでタイヤスモークをあげながら懸命に逃げようとするスカイライン。その走りに、大観衆は総立ちとなる。しかし8周目、904はあっさりとスカイラインを抜き、そのままトップでゴールする。一方でスカイラインは2位から6位を独占し、とりあえず一矢を報いた。ポルシェを抜いたスカイラインGTの評判は、たちまちクルマ好きのあいだに広がった。そして、スカイラインGTの再販を望む声が高まる。1965年2月、プリンス自工は「スカイライン2000GT」(S54B-2)の販売に踏み切る。当初はダブルチョークのウエーバーキャブを3連装するモデルだけを設定したが、同年9月にはシングルキャブ仕様の2000GT-A(S54A-2)を追加。同時に従来の2000GTは2000GT-Bを名乗るようになった。

 一方、最初のスカイラインGTの発表の翌月(発売の前月)となる1964年4月になると、国産自動車メーカー御三家の一角であるいすゞ自動車からGTを名乗るモデルがリリースされる。クーペボディの「ベレット1600GT」だ。搭載エンジンはSUツインキャブを装備したG160型1579cc直4OHVユニットで、88ps/12.5kg・mのパワー&トルクを発生。トランスミッションにはクロスレシオの4速MTを組み合わせる。ステアリングはラック&ピニオン形式で、四輪独立懸架の足回りには強化型サスペンションが組み込まれた。高性能版のベレットは、そのルックスのカッコよさと卓越した走りでスポーツ派ドライバーを魅了。“ベレG”の愛称で多くのユーザーから熱い支持を集めた。