1950年代
1960年代
1970年代

首都高速の歴史1 第一期/1959-1973

都心の交通戦争の解消を目指して
トラックや乗用車の普及によって 交通渋滞が発生し始めた1950年代後半の東京。 この問題は今後さらに深刻化することが予想され、 時の政府はその対策に乗り出す。 1959年には首都高速道路公団を設立。 都市部の高速道路網が計画されることとなった。
トヨタ
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代

ランドクルーザー40

世界へ羽ばたいた国産4WDの王者
1951年のトヨタ・ジープBJから、 ランクルの輝かしい歴史は始まった。 1960年に登場した40系は、おおよそ25年もの間、 ラインアップの中核を担ったロングセラー。 この40系の人気を決定付けたモデルが、 1974年に登場した 3リッター・ディーゼル搭載のBJ40系である。
ダットサン
日産
1960年代

1200トラック

ブルーバードの雰囲気を持つタフな相棒
1959年に登場した初代ブルーバードは多くのファンを獲得。 乗用車の代名詞的な存在へと瞬く間に成長した。 日産自動車では人気のブルーバードのイメージを 商業モデルにも拡大展開することを決定。 積極的にモデルの改良を図った。 1961年に登場したダットサン・トラックは まさにブルーバードの洗練されたイメージを携えていた。
1960年代

高速道路の歴史1 /1963-

物流革命を起こした高速産業道路
海外の技術を吸収し、独自に発展させていく──。 日本のオハコともいえるこの政策は、 何もクルマに限ったことではない。 クルマが移動する“高速道路”にも当てはまる。 国は1950年代初頭に高速道路建設の調査を開始。 さまざまな困難を乗り越えながら、 建設に取り組んでいった。
1950年代
1960年代

特殊車両の歴史1 第一期/1930-1960

「働くクルマ」の普及
国土のインフラを効率的に整備するうえで 必要不可欠なのが工事現場に従事するクルマ、 いわゆる特殊車両である。 日本では時の政府の富国政策のもとに 1930年代から本格的に使用され始めた。 世界屈指の建機メーカーであるコマツの歴史から 日本の特殊車両の変遷を振り返っていこう。
プリンス
日産
1960年代

スカイライン2000GT

スポーツカーの速さを持った“初代赤バッジ”
スカイライン2000GTを生みだしたもの、 それは誇り高いプリンス技術陣の悔しい思いだった。 1963年の第一回日本グランプリでプリンスは メーカー間の紳士協定を忠実に守り 市販状態そのままのクルマで参戦。惨敗を喫する。 自らの技術力に対し絶対的な自信を持っていたプリンスにとって 敗北は受け入れることのできない屈辱だった。 第二回日本グランプリでは絶対に優勝する! その強い意思が奇跡を生み、スカイライン神話を樹立する。
日産
オースチン
1950年代
1960年代

A50ケンブリッジサルーン

乗用車作りを学んだ日産の記念碑
日産が“技術の日産”として発展し 世界をリードするクルマを作り出した裏には よき師の存在があった。英国のオースチンである。 先進の乗用車作りを学ぶため日産は1952年に英国オースチンと提携。 主力モデルだったA40サマーセットサルーンのノックダウンを開始する。 1955年、A50ケンブリッジサルーンに生産車をスイッチしてからは 国産化が進み、1956年8月には完全な国産化を達成した。 日産がオースチンで培った技術はブルーバードやセドリックに発展し、 日本のモーターリーゼーションの牽引者の地位を明確にする。
トヨタ
1950年代
1960年代
1970年代

トヨタの歴史2 第二期/1958-1972

日本No.1メーカーへの成長と足固め
オリジナル乗用車のクラウンやコロナなど、 積極的に新型車を発売した1950年代半ばのトヨタは、 来るべき1960年代に向けて小型車の開発に乗り出す。 さらに自社の技術力を世界にアピールする スポーツカーの製作にも意欲を見せ始めた――。
ホンダ
1960年代
1970年代

S800

世界を驚嘆させた“時計のように精緻な”マイクロスポーツ!
1962年、東京モーターショーのホンダ・ブースは熱気に溢れていた。 そこに展示されていたのは人々の夢をかき立てる2台のスポーツカー、 S360/S500の2台である。 ノーズに精緻な直列4気筒DOHCエンジンを搭載した 2シータースポーツは1966年にS800に進化し、 ホンダの高い志と走ることの素晴らしさを全身で表現する。 ホンダ黎明期の傑作マイクロスポーツは、 世界中のマニアの心を鷲づかみにした“小さな大物”だった。
ダイハツ
1960年代
1970年代

ダイハツの歴史2 第ニ期/1968-1977

新たな経営戦略と車種展開の拡大
中堅メーカーが経営基盤の強化を 模索していた1960年代後半、 コンパクトカー・メーカーのダイハツ工業は 資本強化のためにトヨタと業務提携する。 1970年代に入ると月販3万台の実現に向けて、 車種ラインアップと工場の拡大に驀進した。